「ODDTAXI」をようやく観たよという話

あまりにもぽっかりと予定の抜け落ちた日曜日だったので,ずっと観たい観たいと思っていた「ODDTAXI」のTV版を一気に視聴した.一年前の作品なのでネタバレもへったくれもないとは思うが,こうした群像劇が織りなすバタフライエフェクトとその収束を描くような作品を,僕は「ドミノ」的だなと分類する.

いわゆるドミノ倒しということもそうなのだが,僕が連想しているのは恩田陸による小説「ドミノ」である.それとて語源は同じだろうが一種の刷り込み的なもので,初めて読んだ群像劇とバタフライエフェクト及びその収束を描いた物語だったからである.別の人にとっては「バッカーノ!」的であると言ってもいいのかもしれない.もちろん,こうしたラベリングをすることは,類似点を論ったりすることが目的ではなく,自分の中の分類の問題であることは念を押したい.

 

以下,多少のネタバレを含みつつ.

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さて,そうしたクライム「ドミノ」としての「ODDTAXI」,登場人物それぞれのエゴ,散りばめられた物語読解のためのピース,そして遊び心と.ともかく最高の娯楽であった.何より,「見え」方が変化する前と後では,線の描き方を変化させていることが特に痺れるポイントである.しかもそれが,あの寓話的世界観のパラレルワールドぶりを自然と刷り込ませるのだから,これはもう妙と言うべきであろう.

また,こうした「見え」方を一つのツールとして用いる作品のことを,僕は「火の鳥 復活編」的だなとも思う.これもまた幼い時に繰り返し繰り返し読み,父親にハードカバー(角川版)を相続して欲しいとお願いしたくらいの作品だが(なお,無事生前相続された),その中でも復活編と言えば認知による狂いと救いを描いていた点が幼心に孤独の怖さを植え付けてくれたシナリオであった.「ODDTAXI」では逃避と救い,そしてある種のギフトとして活用されていた点がなんと言っても作品の鍵であろう.と言うことは,最後のシーンの認知も……,と背筋の凍るものを覚えるわけだ.

タイトルにしても,作中で唐突にとあるキャラクターから言及されるが,あまりにも不自然であり,やはりシンプルにoddという単語を捉えるべきで,その言及はミスリード的と言ってもいいのかもしれない.

僕は当初この作品に対して,ゆるいガワによって作品評価に繋がる部分もあるのか,と言うメタ視点を持っていたが,これはなんと酷い先入観だったのだろう.無礼を謝りたいし,その認知の歪みにまんまとしてやられた側の人間である.これは反省して劇場版を迅速に観なければならない.

ところで,多様で豪華なキャスト陣の中に高杉真宙くんがいたことは,嬉しいサプライズであった.真っ直ぐな情熱を持つ(が却って歪んでしまう)ようなキャラクターは,やはりどこか光実味があり,ついつい特撮ファンとして喜んでしまうのだ.