ひとりタイムカプセル(2022年10月)
つるべ落としの日々.
1. ヒーローインタビュー
日本シリーズも終わると,年の瀬までまっしぐらだ.幸いにしてNFLがまさにシーズン真っ盛りである.刻一刻と短くなる日照時間に対し,陰鬱たる気分を募らせることなく日々を過ごすことができる.
いずれにしても,野球は数少ない結果をウォッチするスポーツである.もっとも,今となっては実際に球場に足を運んで観戦する機会は乏しい.職場に熱狂的な鯉党がいた頃は神宮球場や東京ドームに通ったものだが,それも今や昔である.
ここ最近はもっぱら,球場と言えばライブのために訪れることが多くなった.今年だけでも,バンテリンドーム(名古屋),京セラドーム(大阪),ベルーナドーム(埼玉),ZOZOマリンスタジアム(千葉),そして東京ドーム.主要な球場を制覇したようにも思われるが,これら全てがライブ目的での訪問である.僕の中ではすっかり,球場=大きなハコ,という図式になってしまった.
なんとも推しコンテンツの大きさを実感するばかりではあるが,久方ぶりに野球観戦を目的として球場,ベルーナドームに向かったわけである.しかしそれも正確ではなくて,声優陣の始球式を楽しみとしていたわけであるから,やはりどこか大きめのハコという認識であったことは否めない.
なにせ,わずか2ヵ月前にはAqoursのライブとしてベルーナドームを訪れたばかりである.スタジアムと野球がどこか結びつかないという,そんな不思議な気持ちでの観戦であった.
それにしても球場でのスポーツ観戦はやはり楽しい.中でもベルーナドームというドームじゃないドームは外気温や吹き込む風が心地よく,ビールだって普段より美味しく感じるというものである.滝澤選手という新たなヒーローの誕生にも立ち会うことができたこの試合は,大きな収穫だったとも言えるだろう.
ともかく,オリックスバファローズ日本一おめでとうございます.
2. 捕食
名古屋の観光地を尋ねると「そんなものはない」と返ってくるのは一つの様式美でもあるやりとりだが,果たしてそれは愛知県のどの地域に対する問いであっても同じなのだろうか.
しかし,必ずしも目玉とは言えないのかもしれないが,豊橋総合動植物公園(通称のんほいパーク)の牧歌的な雰囲気と言えば心地よいことこの上ないものであった.なにせ愛知という車社会の総合公園であり,アクセスはお世辞にも便利とは言い難いものであるが,大人一枚600円で楽しむには充実の動物園と広すぎる公園,そして温室植物園を擁している.家族連れがテントでも用意すればもう一日過ごす準備は整ったわけであり,それもやはり車社会ならではの作りと言える.
さて目的はと言えばポケモン化石博物館である.このイベント,東京開催時はチケットが全然取れず,それに比べると豊橋開催は穴場中の穴場であった.とは言え会場の混雑っぷりはのんほいパークそれ自体の伸び伸びとした様子とは異なり,都会的な混雑のそれに近いものであった.流石のポケモン人気である.
3. ファンタジーランド
昭和に留まらず平成もレトロとしてエンタメを堪能されるようになって久しい.そうしたレトロはかつて確かにあったもの(を,少しアレンジしたもの)であるが,どこかにあるかもしれないけどどこにも無く,一種の記憶や文化の原風景として刷り込まれている何かは確かにあるだろう.
例えば,菊次郎の夏でSummerがBGMで流れそうな畦道,卒業式や入学式の日に満開となる桜,ホワイトクリスマス,etc.実際には体験したことがないのに,どこかで体験したようなそんな何か.曖昧な記憶でも違和感なく整理できるというのは,脳の優れた働きの一つなのかもしれない.
駄菓子屋,ショッピングモールでそれを模したような店舗は何年も前から見かけるようになっているし,それこそどこかで体験したような記憶にすり替えられているかもしれない.僕は小学生時代に通っていた駄菓子屋があったが,駄菓子屋の正確な位置も,店名だって,全てが曖昧である.何かローカルルールみたいなものもあり,他校の上級生が怖かったような記憶があるが,それすらファンタジーだったのようにも感じる.どこかにあるけどどこにも無い,そんな駄菓子屋の記憶.
実績はないけれども
ひとりタイムカプセル(2022年度上半期)
お久しぶりです.
1. フォロースルー
逢田さんの投球はシュート回転を描いてそう.
2. 答え合わせ
某大会の裏を覗くことが流行ってますね.
3. 信じるということ
灯りが碌に無いような時代,歩き果てたその先にこの光を見たら,確かに神を信じてしまうことだろう.
おじさんキャラに惹かれる歳になったということなのかもしれない
ドクター・ストレンジの新作(マルチバース・オブ・マッドネス)を観たわけですが,やっぱりウォンが最高なわけで.彼を見る度,シャン・チーのEDでHotel Californiaを熱唱するウォンのことに思いを馳せてしまう.もうウォンでスピンオフ作ってください.
なおウォンを除いても映画はとても良かったです.縦横無尽に動き回るシュマちゃん,どこかThe Boysのセブン味のあるイルミナティの面々,ワンダ・ビジョンからのストーリー展開,本筋とそれを彩る要素がとても充実していました.
でもやっぱりウォンの活躍をもっと見たいので,スピンオフを何卒.
ひとりタイムカプセル(2022年4月)
春は光陰のごとく通り過ぎて.
1. Eutopiaな写真
今月のハイライトはEutopiaなシーンを撮影しようと奮闘したことである.
結局はこの一枚に全振りなのだが,突き詰めるとなるとヒルトン東京お台場のロイヤルガーデンスイートに宿泊しなくならなくてはいけなくなる.泊まってみたいけど,ちょっとその,お値段が……と流石に尻込んでしまうクオリティ(とお値段)である.ランジュちゃんに辿り着くまでの道のりは,果てしなく遠い.
2. 藤色の桜
とにかく日本人は桜が好きである.心象風景として春には桜が欠かせないものと刷り込まれているが,幼少期より春のイニシエーションには桜が欠かせないものであると繰り返し伝えられた教育の賜物なのであろうか.実際は卒業式や入学式に満開となるのは相当に幸運な出来事でもある.
いずれにしても,日本人はやはり桜が好きだ.その熱狂ぶりは海外でも同じであり,特に駐在員などいずれ日本文化に戻る人ほど季節の桜を求める傾向にある.例えばワシントンDCのポトマック河畔などは桜まつりが開催されるなど定番スポットである.そして桜がない地域においては,桜の代わりに日本人に愛好されると言われる木がこのハカランダである.
ハカランダというとギターなどの木材として有名だが,それはブラジル原産の別の木.こちらは花が咲いてから葉が伸び始めるという特徴も,また桜を想起させる.よくよく見なくても花の色だけでなく形も,我々がイメージする桜とは程遠いのであるが,ぼんやりとしたイメージの近似は,異国の地より故郷を憧憬するのに十分な美しさである.
3. フィルムカメラの魅力
僕くらいの世代にとっては定番アイテムでもあったインスタントカメラの「写ルンです」だが,意外なことに定期的に若者の間でブームが訪れる.曰く,スマホで簡単に撮影できることに比べ,レトロテイストや現像するまで仕上がりが分からないことが却って魅力であると言われるが,それには全力で同意したい.
そもそも,デジタルであっても一眼レフを用いることのメリットは,アマチュアレベルであれば大きくはない.それだけスマホの撮影能力は優れているし,侮ることができない.さながら,自動運転が現実のものとなる中でマニュアルトランスミッションの車を運転するような,愛好的な趣味の一つに過ぎないと,僕自身も自認しているところである.
なにせカメラを使うことはとにかくお金がかかる.レンズの値段については有名なところであるが,それに加えてフィルムカメラときたら,製造が限定的なフィルム自体の値段,そして現像にまで追加的なお金が必要となる.万が一フィルムが露光なんてしようものならもう目も当てられない.世の人よ,スマホを使うのです……
ただ,ソフトフォーカスやくすんだ色合いというのは,人間が記憶する像と重なるように感じる.頭の中に仕舞われた記憶は,当初いくら鮮明であったとしても徐々にもやが立ち込めてしまう.今のところ,もう二度と同じ彩度でその記憶に触れることはできない.そうした記憶の心象風景とフィルム撮影の写真というのは,どこか似たものがあり,だからこそフィルムカメラで育っていない世代に対しても,「エモさ」を沸き上がらせるのかもしれない.
4. 贅沢
なぜそんなことを考えたかといえば,まさに今日4月29日,フィルムの品揃えに優れたカメラ店を訪れたからだ.普段,手に入りやすさを重視して,フジフィルムのSUPERIA,あるいはKodakのPORTRAくらいしか使っておらず,多種多様なフィルムによるそれぞれの表現力に度肝を抜かされた.
特にロシア製のフィルムが素晴らしかった.そのソフトフォーカスさと淡い色合いは,訪れたこともない旧共産圏のイメージそのものであったと言っても過言ではない.残念なことに,このご時世そうしたフィルムの流通は大きく減少してしまい,もしかすると二度とは出会うことすらできない可能性だってある.
繰り返しとなるが,現在の世界ではともすれば「重要では無い」技術である.しかし,それを楽しむことができるというのは,物質的精神的に豊かであることの証ではあったのだろう.無駄を愛して楽しむ心を,どうぞ大切に.
読書の記録 - 歴史修正主義
武井彩佳 「歴史修正主義」(中公新書)
主にヨーロッパのホロコーストをめぐる歴史修正主義と,そのカウンターパートとしての国家の取り組みの歴史を概観する一冊.そこから,現在世界で渦巻く陰謀論に対する学びを与えてくれる.
ただし,実証主義的なアプローチとしては歴史が修正されることはごく自然である.歴史そのものに触れることは無理であるので,解釈を積み上げるものとなる.他方,日本語として明確に区別されていないが,修正の枠を乗り越えて,歴史を「否定」することが問題である.しかもそれは,政治利用と結びついた歴史の濫用こそが現代の問題となる.それは近年話題となる東欧諸国を巡る情勢だけではなく,むしろ西側諸国においても民主主義の尺度として法的・政治的アプローチが積極的になされている領域でもある.
それでも西側諸国に優位性があるとすれば,法規制の前提となる歴史観や政治規範に置いて,国民レベルで教育と議論がなされていること,そして何よりも表現の自由,その中で歴史研究の自由が守られていること,そして民主主義が普及していることがポイントとなる.特に後者がなければ,歴史の政治利用に対するチェックが行えない.歴史研究ができることはかなりの贅沢でもあるのかもしれない.
ところで,表現の自由は陰謀論の喧伝とも表裏一体である.これについては,表現の自由を第一信条とする米英系と,民衆扇動などの対抗手段として表現規制を重視する大陸欧州系とでは考え方が異なる.そうした中で,近年のヘイトスピーチ問題に関連し,米国もそのスタンスを修正している節はある.余談だが,イーロン・マスクはまさにこうした大陸欧州系の潮流に反旗を翻し,表現の自由をTwitter上で再度敷衍することを一つの目的としているとも言われる.
さて,こうした陰謀論だが,歴史学のアプローチと異なり,「事実」ではなくあたかも「真実」を知っているかのように振る舞うという特徴がある.加えて,「〇〇という可能性は否定できない」という語り口で議論を展開し,しかもその証明を相手に押し付け,それが成立できないからこそ「真実」である,といった詭弁を弄する.筋が悪いことに,「真実」が証明できなくても問題はなく,ヘイトスピーチなどの法規制の対象となることすら厭わないのは,むしろその槍玉に上がることで自説を世に知らしめること,あるいは「攻撃されるのは隠したい『真実』があるからだ」とむしろ支援材料にされてしまうためである.そう考えると,インセンティブ設計が違うため,制度面ではなしの礫とも言える.
こうした議論になると結局は教育という問題に行きついてしまうところは,我々も無責任なのかもしれないが,とは言え教育,そして広い議論が重要なのだろう.ちなみに,僕が定期的に読み返す本として 「野崎昭弘 『詭弁論理学』(中公新書)」があるが,詭弁としての論理展開の累計に触れておくことも役に立つと思われる.